理事長挨拶
理事長プロフィール
理事長 長谷川淺美
1948年 | 茨城県かすみがうら市生まれ。現在も同市在住。 |
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1990年12月 | 父が立ち上げた社会福祉法人白銀会の設立時より法人運営に関わる。 |
1991年9月 | 知的障害者入所施設しろがね苑開設時に施設長に就任。 |
1995年5月 | 前理事長の死去に伴い、法人理事長に就任。現在に至る。 |
一般社団法人 茨城県心身障害者福祉協会 副会長
茨城県知的障害者サッカー連盟 理事長
長谷川淺美ブログ「そこはかとなく」
設立のきっかけ
子供のとき母と観た白黒の映画『名もなく貧しく美しく』。
男の子を持つ聾唖(ろうあ)者の夫婦の日常の物語。 夫婦は手話で話し、子供は聞こえますが、両親との会話は手話です。
夫婦を演じるのは、小林桂樹、高峰秀子。
私はこの時初めて手話という言語があることを知りました。
聞こえない人が、私の知らない言葉を使っています。 ただ美しいと思えました。
母が何故この映画を観に私を連れて行ったのかは、今も解りません。 自分が高峰秀子のファンだったというだけの事かもしれません。
結婚して埼玉に移住しました。夏になると毎週土曜日にデパートの屋上のビアガーデンに主人と二人で行きました。すると近くのテーブルに数人の聾唖者が、ほぼ同じ時間にやって来ます。
そこには手話が溢れていました。静かな会話ですが、楽しそうに表情豊かに手と指が行き交います。
もう一つの言語、もう一つの文化がすぐ近くにありながら、私には全く解らない世界でした。
その後、地元の手話サークルに入りました。
聴覚障がいを持つ人達との交流が始まります。
ボランティアでの手話通訳、要約筆記通訳をするようになりました。 聴覚障がいと知的障がいを併せ持つ子供たちと接することもありました。
ボランティアを通して県の社会福祉協議会とも関わるようになり、視覚障がい者、 身体障がい者グループの人達と接する機会も多くなりました。
支援のあり方、支援の基本、 ハンディを持つ人達の生き方、そしていわゆる福祉というものの実態と制度を学ぶことが出来ました。
そんな時期に父が、人生の集大成として自ら蓄積してきたものを福祉に役立てたいと言い出しました。
私は家とお墓だけ残しておいてくれれば、あとは全部福祉事業に使ってかまわないと答えました。
父は70歳を迎えようとしていました。いつでも前へ前へ進んできた人です。やると言い出したら決してあとへは引かない人です。
父と法人設立及び施設作りが始まります。
出来上がったのが「社会福祉法人白銀会」であり、「知的障害者授産施設しろがね苑」です。
創設者 長谷川正内
(1992年撮影)
翌年の1991年9月に、しろがね苑は開苑しました。父は76歳になっていました。
それから3年間、父は毎日、苑に通い、仕事をしておりました。入所利用者は父にとっては50人の孫たちだったようです。
「白金も黄金も玉もなにせんに、まされる宝、子にしかめやも」
山上憶良の歌ですが、私への手紙のなかに書かれていたものです。
どんな財宝よりも何よりも、大切な宝物は我が子だということです。
しろがね苑を開苑した時に思ったことは、当時の障がい者施設は何処の施設を見ても施設入所の入り口はあるけれど、 施設から出て行く出口は無いという状況でした。
施設に入ったらずっと何十年も同じ場所で暮らすのです。
施設に行って入所している知的障がいのある人と話すとき、この人働けるのでは?と思う人がいます。
施設って何なの?何をするところ?指導って何?(当時は職員を指導員と称した)
しろがね苑は出口を創ろう、
出口の先に待っているものを見せてやろう、
4年間大学に行くとするなら、 その4年間で企業に送り出せる人にしよう。
いち市民として暮らせる人にしよう。
このころの施設は知的障がいのある人たちに衣食住を整備して安全に暮らす(保護する)ことを目的としました。
従って、当時の知的障害者施設(知的障害者更生施設と授産施設)で、ハンディのある人たちを育てて行くという発想はあまりなかったように見えます。 むしろ、働く力とか、育つ力とか、就労に結びつく力とかは、ごく一部の人のみが持つもので、 大半の知的障がい者にはそのような力は無いものとして見ていたと思えます。
支援の基本の形は、盲導犬にあると考えます。
盲導犬は主人たる飼い主が指令を出さなければ動かない、 ひたすら待機して、指令を待つ。指令が無ければ何時間でもひたすら主人の傍らに伏して待つ。 五感を研ぎ澄まして、いつ指令があってもすぐに動ける状態で待つ。声も発せずに。
そして指令が来れば、間髪を入れずに指令通りに行動します。主人の要求に基づいて、その要求通りに、 それ以上でもなく、それ以下でもなく、要求に沿って行動します。
そして、主人に危険が迫れば自身の身を挺して守るのです。たとえ命を失おうとも。
支援の基本は、支援を必要とする人が必要とする支援を、必要な時に、必要とする量、質を、 支援を提供するにふさわしい、あるいは支援する人が望む人材で届けること。
ヘルプのサインはその人によってさまざまに表現されます。
その人を良く知らなければそのサインは見えません。
ともすると支援と称して余計な手助けをしてしまいがちになります。余計な手助けは本人のためではなく、 支援している者の、支援しているぞという自己満足に過ぎません。
1995年、父は79歳で彼方の岸へ旅立ちました。充分に生きた人生だと娘として思います。
共に働くスタッフについて、「部下は深く愛せよ」、
何か事を起こそうとするとき、「始めは処女の如く、後は脱兎の如く」進め、
常に「覇気と健康」が大事だとする心得を、父は娘に残してくれています。
父は人生最後の仕事として福祉事業を選びました。
自身が積み上げてきた知識や財産をこの事業に注ぎ込むのです。
家族も賛成しました。何のためにでも、誰のためにでもなく、自分の最後の仕事は世の中へのお返しなのです。
これまでの人生で得たものの全てを、今度は福祉として世の中へお返しするのです。
父の想いと法人を引き継いだとき、これからの私の半生は法人と施設と知的ハンディを持つ人達とともにあるのだと思いました。
知的ハンディを持つ人達に生かされているのは私であり、いつも背中を押してくれるのは彼らなのです。